左近と彦根は

左近が石田三成に仕えたことにより

深くかかわりを持つことになる・・・・

             ■清涼寺
              ■百間橋
               石田地蔵

清涼寺

 左近邸跡に建立されたと言われる井伊家累代の菩提寺。
現在の清涼寺の北半分(座禅堂あたり)が左近邸だったようだ。座禅堂の前のタブの樹は、島左近邸の頃のものと伝えられている。当時の左近邸の材料が使用されている建物が現存する。
 左近はこの屋敷の東から佐和山に上り出仕していたといわれている。現在のハイキングコースとも一部重なっており、30分程度で佐和山城天主後に行ける。
 井伊家が関ヶ原戦での戦死者の供養のために建立され、彦根城初代藩主直政が関ヶ原戦の傷が元で亡くなったため、この地を墓所とした。以来清涼寺として井伊家の菩提寺となり、また大老直弼が参禅修行した寺としても知られる。

百間橋

 左近屋敷前から琵琶湖畔松原までの内湖(当時)にかけた橋。
『彦根古絵図』によると、百間橋は佐和山の麓の石ヶ崎から松原にかけての橋で「嶋左近承りこの橋をかける横三間長さ三百間」とある。 


松原から映した百間橋・昭和14年撮影


彦根古絵図

石田地蔵

 彦根市内のどこからもよく見える佐和山ですが・・
たとえば・・
 彦根藩は三成の遺徳を一掃する為に佐和山の形を変えるほどの破城をおこなった上に、百二十年の長きに渡って「佐和山入山禁止令」を出し、おまけに「石田家の噺を致すことを厳しく取り締まり、古城辺の物語りまでもご法度」としたのです。
 三成一族の民政はすぐれ、領民をどこよりもたいせつにしていたので、井伊家の徹底した”三成抹消”政策をもってしても残念ながら人々の記憶や慕情まで消し去ることはできなかったのです。
 三成の徳を慕う領民は命を賭けて密かに佐和山に入り、お地蔵さんを作っては山あいに祷り、三成一族の霊を慰めたつづけ、三成の善政は子から孫へと語り継がれたといわれます。
 命がけのお地蔵さんの数は数百体ともいわれ、ひとびとはそれを「石田地蔵」とよんでいます。
 今も佐和山城本丸天守跡に数体祀られています。