−−−−治部少に過ぎたるもの二つあり    

    島の左近と佐和山の城−−−−

といわれた二人の関係は・・・

■三成への出仕とその関係
  城より得がたいもの

 『三成は、賤ヶ岳の戦い(天正十一年)では七本槍に次ぐ武名を馳せた。時に三成、二十四歳。
 才知のみ語られがちな三成であるが、この賤ヶ岳の戦いでは、秀吉の為に思う存分槍をふるい武功を賞された。その時の勲功により水口4万石の領主となった三成は、野洲川を外堀とし、古城・近江岡山に入ったが、本格的な築城はなかったようである。 が、この地で三成は
城より得がたいものを得た
       ---不出世の将器「島左近」その人である。---
 近江水口で四万石の
領主となった三成が、その半分の二万石をさいて、これを獲得したというのである。これを聞いた秀吉が君臣の禄が同じだということは昔からためしがない、左近もその志に感じて三成に仕えたのだろうと感嘆し、左近をよんで三成によく仕えるようにといったという。』

 という話があります。左近は高名の士であったから、高禄で招こうとした諸侯も多く左近がいかに大物であったかを示す逸話であるが、残念ながらこの話には確たる根拠があるわけではないし、左近が光成に仕えるのは後のことになるがこのころ出会ったの事実であろう。。
近江水口で四万石の身代:
 三成が水口の領地を与えられたのは1583年(天正十一年)である。しかし在城は短くわずか2年で中村一氏に引き継がれている。そのころ左近は筒井順慶・定次に仕えている。
  ●三成に仕えた時点は
         1592年文禄一年十月以前 『多聞院日記』
 

 このころに左近が朝鮮へ渡っていたことが確認されている。そのころ秀保は朝鮮陣に当たって、肥前名護屋までは出かけているが渡海はしていない。蒲生氏郷も名護屋に駐屯しただけで渡海しなかった組である。一方、石田三成はこの時期に朝鮮へ渡っているから、このころすでに石田家に転仕していたことになる。左近がそれまで蒲生家に仕えていたという説をとってみた場合には、恐らく小田原陣の後、氏郷が奥州へ転封されたのを機会に、その家を離れたということになろう。
  ●左近は三成にとって師匠 『志士清談』
 

 秀吉の死後、ともに大阪城の天守への登ったときの話がある。
三成は城下の繁栄ぶりを謳歌っするようなことを周囲に語ったが、左近は帰邸後、これを否定して、王候のいるところが繁盛するのは、徳によるものではなく、利にひかれて人が集まってくるだけのことであるといった。
 大阪の城下をわずかに外れれば、ひどい暮らしをしているものが多くとても枕を高くしていられる状態ではない、豊臣の天下を安定させたいならば、武力によるのではなく、まず武士たちを愛し、庶民を撫育して、人の心をとることが先決である。そうすれば、豊臣の天下を覆そうとする者があっても、豊臣家の恩義に感ずる者が集まって容易に平定できるだろうというのが彼の主張であった。 

佐和山城

石田三成の居城。左近は三の丸に詰めていたとされている。


当時の琵琶湖周辺の主な城

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佐和山城跡絵図

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佐和山城絵図
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概要図
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佐和山落城図

pen3b.gif 25x25 0.22KB 三成 アラカルト◇三成の旗印「大一、大万、大吉」の意味

「大とは天下を意味するものなり。
  天下のもと一人が万民のために
    万民が一人のために命を注げば、
 すべての人間の人生は吉となり、
  太平の世が訪れる。
    故に人間が変われば世もまた変わる」
                   と言う意味です。