島左近は、詳細不明の傑物です。

「関ケ原」という壮大な史劇の

副主人公ともいえる役割をにないながら

分からないことが多すぎるのです。

そしてその生死は・・・・・・

■1600年 慶長五年 関ヶ原決戦での活躍
  ●左近の基本戦略 『平尾氏箚記(ひらおしさつき)』など
 

 彼が三成の傍らにあって、どのように働いたかは余り明らかではない。
諸史料から伺えることころでは、左近は、どういう手段を用いてでも家康をたおしてしまえばよいと考えていたらしい。
 単純ではあるが、もっとも明快で確実な方法である。そのため何度か家康襲撃を計画したが、三成は名分にこだわってか積極的でなかったため、好機を逸してしまったようである。
  ●八月二十三日の美濃合渡川の戦い 
 

 決戦前日の九月十四日、左近の采配によって東軍の中村・有馬の両部隊を美濃杭瀬(くいぜ)川で打ち破る


『関ケ原合戦屏風』右側に描かれた杭瀬川の戦いにおける島左近

  ●美濃赤坂の家康陣を夜襲案 『関ケ原陣輯録』
 

 いよいよ決戦せざるをえなくなって、三成をを戦略、戦術両面で補佐したのは大谷吉隆(吉継)と左近であった。
 左近は本陣を尾張の熱田まで進め、自らが先手となって家康を迎撃することを提言したという。また、美濃赤坂の家康の陣を夜襲しようと提案したが、容れられなかったこともあったという。
  ●まともに仰ぎみることもできないほど恐ろしい男 『常山紀談』
 

 決戦当日、東軍の多くの部隊が石田隊をめざして殺到し、左近は先手となってこれを迎え撃ち、激戦となった。その間、黒田長政隊からの発砲で負傷し、いったん陣内に引き揚げた。このとき長政は家中から勇士をえりすぐって左近らに立ち向かわせた。この者たちが後年、このときの左近の出で立ちをおぼえていなかった。
 石田の旧臣で、当時黒田家に仕えていた人たちを呼んで尋ねたところ、「冑の立物は朱の天衝、溜塗り桶皮胴の甲に木綿浅黄の羽織」だったと分かった。まともに仰ぎみることもできないほど、左近は恐ろしい男だったという話なのである。
 ●関ヶ原決戦陣形図

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決戦場全体陣形図陣形図


左近・三成 付近詳細


大谷刑部・小早川秀秋 付近詳細

岐阜県関ヶ原町古戦場の説明板。
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 アンケート署名「関ヶ原古戦場における島左近陣地跡に彼の説明板を建てよう」【戦国浪漫主催】の結果、2001年4月17日設置されました。
■生死は?
  ●八月二十三日の美濃合渡川の戦いで戦死説 
      『関ケ原陣輯録』
 

  これは気が早すぎる。決戦前日の九月十四日、左近の采配によって東軍の中村・有馬の両部隊を美濃杭瀬(くいぜ)川で打ち破っているこは、史料的に明らかだかである。
  ●九月十五日の決戦戦死説
 

 ・『関ケ原軍記大成』:
    乱軍のなかで戦死した。
 ・奥儒者の成島司直:
    二人の息子の討死を聞いた後、敵中に突入のして死んだ。
 ・『福島大夫殿御事』:
    三成の居城・佐和山で切腹した。
  ●左近の生死は不明説
 

 ・『古今武家盛衰記』:
    息子たちの討死も知らずに、敵兵を切りちらし、追い払って、
    難なく西国へ落ちていった。
 ・『関ケ原御合戦当日記』:
    戦後捕らわれたが、赦免されて徳川の旗本となった。
 ・宮本常一氏『山に生きる人々』:
    近江余吾(滋賀県伊香郡余呉町)の山奥に潜んだ伝承があると
    紹介。
 ・教法院(京都市上京区の日蓮宗立本寺の子院):
    僧形となって潜伏していたという伝承があり、立本地の墓地には
    左近の墓というものがありその墓には寛永九年(1632)
         六月二十六日没とあるが、墓標自体は新しいものだという

当会は猛将にふさわしく
二人の息子の討死を聞いた後、敵中に突入のして壮絶な戦死・・・