「鬼左近」とも称され

「日本第一の勇猛」「鬼神をも欺く」勇将とたたえられた左近、

その風貌を伝える肖像などもまったく残されていませんし、

必ずしも正確に伝えられていません。

もっとも肝心な名前でさえ・・・・・・・・

■名前は?

ehonntaikouki.jpg (38735 バイト)
絵本太閤記を元にした江戸時代の版画

名字
  ●「島」:現代の表記  
  ●「嶋」:古い史料類
通称
  ●「左近」:諸史料
  ●「左近 允(さこんのじょう)」:
        『古今武家盛衰記』
実名
  ●「勝猛(かつたけ)」:圧倒的で、現代の史書もこれを採用
  ●「友之(ともゆき)」:『和州十五群衆徒郷士記』など多数
  ●「昌仲(まさなか)」:『常山紀談(じょうざんきだん)』
  ●「清興(きよおき)」:根拠が多い『多聞院(たもんいん)日記』など

当会は「島 左近 清興」を採用し以後「左近」と表記します。

■生国は?

  ●大和(奈良県)説 一般論
 

 左近が大和の筒井氏に仕えていたことはたしかな事実で、同国平群(へぐり)郡には嶋氏という国人(こくじん)がいて、早くから筒井氏と行動をともにしていたことも明らかです。それらを結びつけて考え、左近を大和の出身とするのが、自然な発想の一般論です。
嶋氏:
 春日神社の神人(じんにん)であり、興福寺一乗院の坊人でもあったという(朝倉弘・『奈良県史』所収「大和武士」)。
 応仁の乱には、筒井党として東軍の畠山政長の側に立ち、いったんは没落の憂き目をみたが、筒井氏の復活とともに息を吹きかえしたらしい。

 嶋一族は筒井氏麾下にあって平群谷(へぐりだに)を押さえ、椿井城(つばいじょう)〔生駒郡平群町〕、西宮城〔同町〕に拠っていたとみられている。
 左近その人の家の系譜は明らかでないが、父を豊前守といい、興福寺寺宝院を建立したという伝えがあったという〈『諸系図纂』)。左近軍旗/@裾黒斜め分けに神号と柏紋、二引『関ケ原合
     戦図屏風・井伊家本&木俣家本』
  ●近江(滋賀県)説 『坂田郡志』
 

 近江の箕浦荘(坂田郡近江町)の領主に嶋氏があり、本氏を藤原と称し、京極家の傘下に入っており、この家の嶋若狭守の子が左近であると記したものですが、当の嶋氏そのものの記録(『嶋記録』、『嶋系図』)には左近の名は見えません。
 しかし、左近の名は徳川家をはばかって消されたものであるとし、後に左近が石田三成と肝胆相照らすことになったのも、同郷人であり、ともに京極傘下にあったからだとしています。
  ●尾張(愛知県)説 『寛政重修諸家譜』
 

 織田一族の信正の五男某が通称を左近といい、石田三成に属して関ケ原の戦いに討ち死にした、とあります。しかし、それ以外には傍証もないし、この織田氏が嶋氏と改めたのは、信正の三男一正が美濃(岐阜県)の嶋村に移住した以降のことだというから、ややつじつまが合っていません。
  ●対馬(長崎県)説 『古今武家盛衰記』など
 

 史料もいくつかあるりますが、根拠は明らかではありません。

 当会は決定的な史料が出てくるまで
ロマンを求めて江戸時代の随筆『古老茶話』の以下の文章を採用致します。

「島左近…などといふものは、どこのものやら知れぬなり」

■勇将の戦歴
  ●1569年 永禄十二年
          徳川家康と遠江袋井で戦い、これを追撃
 
             
『天元実記』
 

 一時期、甲斐の武田信玄のもとに赴き、その部将・山県正景(やまがたまさかげ)に属してたという説がある。そのとき徳川家康と遠江袋井(とおとうみふくろい)で戦い、これを追撃した。
 これは左近自身の談話ということになっているが、他に裏付けがあるわけではない。ただ、左近が武田家にいたことは事実であったかもしれない。
 なにしろ武田信玄といえば、当時から武士たちの崇敬を集める存在であったし、山県正景の名も猛称中の猛称として聞こえていた。家康なども、敵ながら信玄を師匠のように仰ぐとともに、山県の武勇についても賛嘆を惜しまなかった。左近の武名が早くからとどろいていたのも、山県の下で働いていたことがあるという経歴があずかって力があったからではないかと思われる。
  ●1582年 天正十年六月
          山城山崎の戦い「洞ケ峠を決めこむ」
 
              軍談・講釈の類い
 

 これは本能寺の変報に接した羽柴秀吉が急拠中国から引き返してきて、明智光秀を討った戦いである。
 このとき左近の主人・筒井順慶は、洞ケ峠(ほらがとうげ)に布陣して形勢を観望し、羽柴方優勢とみるやにわかに明智勢を襲って勝敗を決定づけたとされている。「洞ケ峠を決めこむ」という表現は、ここから出ているが、あらかじめ秀吉と会ってこうした段取りをつけたのは左近だったという。
 残念ながら『絵本太閤記』などの昔からよく知られた話、「明智光秀の老臣斎藤利三の弟・大八郎が順慶本陣に突入してきため左近が秀吉から賜った薙刀をふるって順慶を救い、大八郎を討ちとめた」は、実は順慶が洞ケ峠まで出ていったという事実すらないまったくの俗説です。 
  ●1583年 天正十一年五月
          伊賀衆の夜襲を受けて負傷
 『多聞院日記』
 

 筒井順慶の伊賀攻めに従い、伊賀衆の夜襲を受けて負傷した。
これは確かな事実だが、どのような働きがあったのかは明らかではない。
  ・1584年から1585年 
 筒井順慶が死に、あとを継いだ定次は、大和から伊賀上野(三重県伊賀上野市)へ国替えとなった。左近もこれに従って伊賀へ移った。この間、秀吉の紀州攻め、九州攻めなどには筒井勢も参加しているので、左近も従軍したと思われるが、具体的な働きについて記したものは見当たらない。
  ・1588年 天正十六年二月 
 定次の人物に失望して筒井家を去る。定次の不行跡に愛想をつかしたからだといわれているが、左近の領地の農民と中坊秀祐領の農民の水争いに定次が不公平な裁きをしたことに腹を立てたからだともいう。
 大和に帰った左近は、一時、興福寺に寄食していたともいわれるが、やがて、当時、大和の国主であった豊臣秀長(秀吉の弟)に仕え、1591年(天正十九年)一月、秀長の死後は、その嗣子・秀保に仕えたとみられているが・・・
  ●1590年 天正十八年
         秀吉の小田原攻めに参加
 『多聞院日記』
 

 左近は「亀山」にいて、ここから出陣していたとする記事がある。これは伊勢亀山(三重県亀山市)を指していると考えられるが、当時、亀山は蒲生氏郷(がもううじさと)の属城であった。したがって、左近は蒲生家に属していて、していたと解されるが、具体的どういう活動があったのかは明らかでない。

pen3b.gif 25x25 0.22KB 左近 アラカルト
   
◇左近の軍旗

裾黒斜め分けに神号と
柏紋、二引
『関ケ原合戦図屏風・
井伊家本&木俣家本』

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